商店会の歴史

大正時代の海岸通り―子供の頃の思い出―矢嶋三策

昭和27年ごろの森戸橋

私は大正10年(1921) 3月1日生まれであるから私の大正時代というのは5歳頃までとなろうか。
それに大人たちの昔話が加わっている。

私の生家は元町の海岸通り、現在の橘薬局の脇を海岸の方に入ったところにあり、戦後加茂歯科医院のあったところで父と叔父の二人で歯科医をしていた。

その頃の記憶というとどうしても大正12年(1923)の関東大震災が浮かんできてしまう。背中がかゆいというので裸になり、祖父に掻いて貰っているところへグラグラッときたのである。祖父は読みかけの本を右手に、私を左手に抱えて庭先に飛び出した。夜は庭の大木の根のあるところへ蚊帳を吊って寝た。翌日元町の海岸通りに出てみると、街角に剣付き鉄砲を持った水兵さんが警備のために立っていてくれて、とても頼もしく心強かった。津波の影響はなかった。
「橘薬局」にはアイスクリーム等のあるハイカラな喫茶店の一角があり、みやちゃんというきれいなお姉さんが評判の都会風な感じのするお店であった。

その隣には「鎌倉屋」という八百屋さんがあり、私はいつもみかんや落花生を買いに行かされた。そのお隣の「加茂薬局」の小父さんはアメリカ帰りで、英語がペラペラなので外人が来ると通訳をするのだということであった。3人兄弟が居られて上等な映写機があり、よく2階で映画を見せて貰った。

筋向いの本屋さんの「幸福堂」には、祖父のお使いで鉛筆や消しゴムを買いに行かされたが、上等な舶来品を揃えていた。アイウエオは3才の頃からその祖父に教えて貰っていたのである。
「幸福堂」のお隣のおそば屋さんの「東屋」には祖母が時々連れて行ってくれ、天ぷらそばをごちそうしてくれた。年寄りのおばあちゃんが居てとてもおいしかった。

呉服屋さんの「がらす屋」や「稲屋」には母について行ったことを覚えているが、反物等がたくさんあって立派なお店であった。

ちょっと離れた「大文字屋」裏の「富の湯」のお風呂屋さんには祖母が連れて行ってくれた。その後、現在スーパーのユニオンがあるところに「よろづ温泉」という新しいお風呂屋さんが出来て、はやっていた。

元町海岸通りの商店街というのは、どこも立派な一流店という感じがあったが、高級別荘族を相手にして結構繁盛していたのであろう。